先に述べたように、明石公園は明石城が明治6年廃城令で陸軍省の管轄下になり、その後一部が旧士族の総代による私設公園として払い下げられたあと、旧明石郡に公園が移管されたりする曲折を経ながら、1918年(大正7年)全域が県立公園となりました。兵庫県の県立都市公園は戦後の都市計画法に基づいて新たに整備されたものが大半だが、明石公園はその成り立ちから歴史的由緒の深い別格の公園でもありました。
他の県立公園は都市計画法に市民参加が導入されて以降、地域の自治体や関連団体、市民代表等の公園利用者を構成員とした管理運営協議会等を設置し運営されていますが、明石公園は県の出先機関である明石公園事務所が戦後すぐに設置され、直轄で管理運営してきました。その後「財団法人兵庫県公園協会」を設立して県が出資する外郭団体に管理委託し、2003年に地方自治法の改正で民間企業等にも管理委託できる指定管理制度ができてからは公益財団法人として改組した現在の兵庫県園芸公園協会を指定管理者として管理委託しています。
協会は公園の日常管理を委ねられているが、基本的な公園管理の方針や予算措置等は本庁の県公園緑地課の管轄になり、さらに東播磨県民局の統括のもとで、公園協会は指定管理者に位置づけられ、県の委託事業者としており、対外的な権限を狭められています。
明石公園部会で取りまとめた今後の明石公園の管理運営の仕組みは、地元市をはじめ明石公園を利用する関係団体や市民の意見を反映したり、日常的な管理運営に関わる仕組みを構築することになっていますが、予算措置を伴うことや県が定めた管理運営の在り方に関わる問題には、いちいち本庁の担当課が関与する仕組みは今後とも変わらないと見られます。
また、今回の問題がきっかけで、一時は「県立公園から市の管理公園への移管」問題も飛び出しました。主として明石公園部会の委員メンバーとして大きな発言力を行使した泉市長がしばしば口にしたことですが「姫路城も大阪城も名古屋城も市立公園なのに‥‥なぜ明石公園は県立なのか?」という趣旨でした。この件は斎藤知事との会談で県立を変更することは全く考えていないと明言されたことで「市立公園」の話は立ち消えになりました。
こうした議論は中核市になったとはいえ、明石市が明石公園を抱えきれるかという問題や、明石公園の持つ機能等から妥当なのか‥等々の検討が行われたわけではなく、どちらかと言えば剛の池のボート利用料金の値上げに絡んで突如出てきた感は免れず、本質的な議論にはなり得なかったのは当然でもありました。明石公園と明石市の過去の関わりの数々の問題点からすれば、県立公園として地元市や市民の意見をきちんと反映する仕組みの下に県が責任を持って管理運営に当たる方が、むしろ適切だという結論に落ちつかざるを得ないのではないでしょうか。