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明石公園の豊かな自然 ―― 喪失して気...
 
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明石公園の豊かな自然 ―― 喪失して気づく掛け替えのない「いのち」――

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(@akashikoenjim)
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結合: 3年前

7月18日、「明石公園の未来を考える集い」が開かれました。
私は、今回も受付に居たので、細かいことを把握し切れていないかもしれませんが、会場に満ちる気を感じながら考えていたことを書かせていただきます。

4月3日のシンポジウム以降の動きとともに、今後を見据えた視座から、明石公園の有り方について、ずいぶん多様な意見や提言が出されていました。公園の「運動施設」としての役割に関して、社会的な観点から話された方もおられました。

様々な立場や視座からの検証は大事だと思いながらも、あの集いで感じていたのは「この会は正に、明石公園の自然を次世代につなぐ会なのだ」ということでした。「自然を通して」何を伝え、何をつないでいくのかを考え行動することは、必然的に社会性を持つものになるのだと確信した次第です。

「次世代につなぐ」に留まらず「次世代の次世代、さらに次世代へ」・・・これこそが真のSDGsの思想に重なるという自明に、改めて観じ入っていたのでした。

 入り口の辺りに立って、登壇者の背後のボードを眺めながら、「明石公園の自然を次々々々々世代につなぐ会」になるよう「々」をイッパイ書き加えに行きたくなったほどでした。

 参加は叶わないけれど・・・と、渡辺信雄さんが詩を寄せて下さいました。現在、明石市在住。「肩書き・詩人は恥ずかしい」とも「木を愛する・樹の好きな‘詩書き’のおっさんです」とも仰いますが、16年前までの長きにわたって神戸にあった「詩誌『輪』の会」の同人でした(私は、その詩誌に絵を掲載していました)。

渡辺さんからのメッセージと詩です

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 
 私の生まれ育ったのは宍粟市波賀町。不動滝のある村で山に囲まれていた。
 今は団地住まいの日々。近くの公園は「鎮守の森」としてある。
 日々の散歩は、木々に会いに行くことでもある。語りかけ、聞いてもらう。
 木々の様子も季節により刻々変わり、樹と人は密接な関係にある。
 蝉が地中から出て、樹を棲みかにして鳴いている。樹がなければ生きていけないのだ。
 木や花のない暮らしなど、なんて味気ないことだろう。
 ここに記す「樹下に佇む」の他に、「根源的な木」「樹とのはなし」など、詩に書いてきた。
 木への愛着からできたものと思う。
 公園の樹が伐られることは、自分の心身が伐られる感じがした。
 過去の事故によって片眼を喪失したことも影響しているとは思うが。

樹下に佇む

               渡辺信雄

五月の空に
伐られた腕を
突き出している樹たち
みずみずしい若葉も
落ちてしまって
樹は伐ってくれとは言わなんだ
誰が邪魔と言ったのか
切断された樹の
呻き声を
聴きながら
歩く
切断された樹の枝には鳥たちが止まり
歌を唄っていたし
虫たちもやってきた
人は木陰で憩い
溜め息をつき
世間話をしていた
葉のない樹の下を
唸りながら
空を見上げる

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 この詩の「松が丘公園の樹たち」が、私には明石公園の木々に重なってしまうのです。

 この春、満開の桜を前に、これまで抱いたことのない想いをしました。

 冬に明石公園を見に来た時、石垣の傍に立っている桜の木たちを見ました。傍にいる「切り株になった木々」が寒そうでした。周辺の伐られずにいた木たちも葉を落としていたこともあって、その時は「これが冬の姿なのだな」としか思いませんでした。

 そして春・・・春爛漫の様子を思い浮かべながら明石公園に行きました。桜は満開で、多くの人々で賑わっていました。

 私は、自分が目の前で見ている光景と、自身が抱く感情のギャップに驚いたのでした。

 お城の石垣を背景に、花を付けた桜たちが立っていました。私には、その姿が何だか寂しそうに見えたのです。美しい花を咲かせているにも関わらず、ひっそりとしていて「咲き誇る」などという形容はできない・・・そんな、カワイソウな気持ちになってしまったのです。

 灰色の石垣に淡いピンク・・・そこには「緑」がなくてはいけないのに、緑の葉をつけた木がない・・・いえ、居ないのです。あるハズのものがない、居るハズのものが居ない・・・そんな喪失感に覆われました。欠落感を抱きました。「いのちの象徴としての緑」が寄り添ってこその「可憐な桜色」なのに・・・。

 それぞれがそれぞれの命を萌えさせ、咲かせ・・・それでこそ木々たちは幸せになり、虫も鳥も一緒に喜び、一斉に命を寿ぐのでしょう。そんな喜びや幸せの「お裾分け」が「お花見の寿ぎ」かと、ふと思ったりしました。

 集会での皆様の報告や提言、会場からの発言を聞きながら、人間の恣意によって木々の生命を絶つことの罪を今さらながらに想いました。それを詫びながら、今からできることをさせてもらうしかないと心したのでした。

 これまで「自然を守る」などと、おこがましい言い方をしてきた私たち。開発という名の自然破壊もしてきました。今なら、まだ間に合う・・・でしょうか。専門家の方々が多くおられる会は、頼もしい限りです。最も「いのち」の深みに寄り添わせていただける会で、多くの気づきをいただけることが嬉しいです。

 私は情緒的なことしか言えませんが、でも、「いのち」の話こそ「科学的だ」と思っています。「いのちが喜ぶことを目指す」ことが「平和を生み出す」ことであり、それこそが「社会性のある営み」と言えると思っております。

 「木の話」は「いのちの話」・・・全国には同じような問題に面している人たちが多くおられます。そんな人たちとの連携は、更に強く確かな「根っこ」を育むことでしょう。

「次世代へつなぐ」は「次々々々々世代へつなぐ」でもあり「全国の人たちをつなぐ」でもあるのだと思います。 

                           2022年7月20日・記
                                 坪谷令子

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